「能力主義」歪められる子どもの発達

高度経済成長政策のもとでの日本の家庭のもうひとつの変貌ぺいわゆる『能力主義』という、家庭での本来の子育ての営みとは全く相いれない主張が家庭内に侵入してきたことです。その能力主義について考えてみましょう。マンパワー・ポリシー(人的能力開発政策)という言葉があります。日本の高度経済成長を支える、人づくりの政策として、政府が推し進めてきたもので、子供達の能力を幼いうちからふるいわけし、一部のエリートと大多数の非エリートをつくっていく政策です。

この政策に基づいて「能力主義」の教育が極端なまでに推し進められました。小学校の段階から、難しいことを、一度に教え込み、それについていけない子供達は、置き去りにしてしまう「新幹線教育」や、ペーパーテストの点数だけで子供の学力を計り、それで子供の能力の序列をつける「順番主義」などはそのあらわれです。

この結果、有名な国立、私立大学への入学を社会での「立身出世」の保障とするような状況・・・学歴社会がつくられています。早稲田大学の不正入試事件も、こうした中で起こったものです。テストの点数によって人間の価値、能力を判断するといった考え方は、親にも少なからぬ影響を与えました。

いま、日本の家庭は、健康の問題、住宅の問題、あるいは、物価高により家計が大変だというように、家庭生活を維持する物質的基礎そのものが不安定になってきている状況に置かれています。親、とくに母親は、その生活のゆとりのなさからイライラして、絶望的になりがちです。そして、親が望みをかけうるのは、子供の将来だけということになっています。

これが、先にのべたような学歴社会への期待と結びついて、子供を少しでも上級の、できるだけ「よい学校」にやりたいという要求となってもあらわれてきているのです。もちろん、子供にできるだけ高い教育を受けさせたいという願いは親として当然のことですし、大事なことです。しかし、政府の差別と選別の教育政策のもとで、その願いは歪められ、他の子供との学力競争に打ち勝つことが、子育ての第一に据えられるようなことか一般的になっているのか現状です。

つまり、子供に「勉強だ!勉強だ!」とムチをあてることで、自分の不安をすり変えていくということが起こってきたと思います。母親が「あなたのために」ということは、じつは「自分のために」ということなのです。こうして、日本の親は知らずしらずのうちに、「能力主義」の教育にまき込まれ、子供達は塾や進学教室でもまれ、「能力主義」の教育競争のなかに投げ出されます。今日、問題になっている、過保護・干渉過剰も「能力主義」に家庭がまき込まれているところに根源があります。

急遠に増えている家庭内暴力というのは、その破局的なあらわれといえるでしょう。一人息子が母親に暴力をふるうのを思いあぐねて、父親がその息子を絞め殺した「開成高校生事件」また、東京・世田谷の高校生による「祖母殺し事件」など。これらは、「能力主義」のもとでの過保護、干渉過剰の結果、自立の羽をもがれた子供達のイラ立ちが、非常に悲劇的な形であらわれた事件だと思います。「能力主義」という、本来の家庭の教育機能とは異質のものの、家庭への侵入・・・これが高度成長によってもたらされた、もう一つの罪です。

— posted by Life at 11:50 pm  

えぐり取られた家庭の絆

父親は非常に忙しく、口を開けば「疲れた」「くたびれた」を連発する。母親も外で働いているため、ゆとりのない子育て。朝食の準備をした母親は出動の身支度をする。夫や子供を起こし、「早く食べて!」とせかす。子供を着替えさせ、抱えるようにして保育所へ走る。会社が引けると、くたびれた体で子どもの迎えに・・・。

核家族化、共働きの増加か特徴的になったのは、1960年代から70年代の初めで、高度経済成長期に当たります。この時期、海を埋め立てて石油コンビナートや火力発電所が次々に建設されました。山は削られ、高速道路や新幹線が走りました。オイルショックが起こる73年ごろまで続いたこの高度経済成長は、池田、佐藤、田中という三つの自民党内閣が、国の財政で、巨大な日本の重化学工業を育成してきたものでした。

たしかにその結果、GNP(国民総生産)は資本主義世界で第二位になり、大企業は大変な国際競争力をつけました。しかし、表面的な物質的「豊かさ」のなかで地域や生活の破壊が進行しました。こうした変化は家庭と子育てに対してもさまざまな影響を投げかけています。

家庭での子育てをめぐっては、つぎの二つの点が特徴的になってきているといえます。その一つは、家族関係がバラバラになってしまっているということです。都市部へ人口が集中するなかで、祖父母のいる従来の三世代家庭が壊れ、親と子の二世代家庭が増加しました。

また「三ちゃん農業」という言葉にみられるように、農村では父親の出稼ぎなどとあいまって、一時的に家族が欠ける状況にもなりました。そればかりではなく、二世代家庭の中でも共働きが増加し、父親だけでなく母親も日中不在という状況か生まれました。

現代の家庭は極端にいえば、家族かメシを食うためだけの関係・・・食事のときだけ、タコツボから出てくるような、「タコツボ型」の関係になってしまっています。家族の連帯・・・家族が一緒に何かするとか、お互いを思いやるとか、生活のなかでつくられてくる連帯というものが急速に失われているわけです。

二つ目は、家庭か社会から孤立し、家庭同士、非常に閉鎖した関係になっていることです。「マイホーム主義」という言葉がありますが、自分の家、自分の車を持ち、家のまわりにツルバラを植えて、隣はなにをしようとも無関心という状況が生まれました。つまり、「私生活」第一主義です。

こうした風潮が都市から農村へと浸透していくなかで、「向こう三軒両隣」というような、地域社会の連帯も失われていきました。子供というのは、学校や家庭だけでなく、地域社会の子供達のなかでもまれながら成長していくものですが、結局、この閉鎖的な「私生活」第一主義は、そうした子どもだもの成長の場をも奪ってしまう結果になったのです。家庭と子育ての問題を考える場合、それが高度経済成長政策による国民生活の変化、破壊と深くかかわっているという点をはっきりみていく必要があります。

— posted by Life at 10:51 pm  

「血は水よりも濃し」なのか?

昔から、「血は水よりも濃し」といわれます。たとえば、会社の同僚というような、社会的な約束で結ばれている人間関係と違い、親子、兄弟のつながりというのは、血縁で結ばれているため、大変深く、強いということです。食べ物がなくて、飢えにさらされたとき、親は自分の食べ物を減らしてでも、子どもの空腹を癒してやろうとします。親の子に対する愛情は、子どもに何か報いを期待して注ぐものではなく、無私の愛、つまり報いを期待しない愛だといわれています。

子どもの方も、そういう親に対し、特別の思慕の情をいだきます。子どもは幼いときから、親に甘え、親の愛をむさぼって、成長していくわけです。親と子は血のつながりがあるといっても、生身の人間同士ですから、ときには「このヤロー!」と思うこともあるでしょう。他人なら、そんなとき、「サヨナラ」で済むかもしれません。しかし、家族の場合は、いくら反目しあったとしても、生きているかぎり、お互いに、親子、兄弟の関係をなくすわけにはいきません。

ここに、血のつながりのやっかいな一面もあるわけですか、そのシガラミのなかで、お互い相手のことを考えつづけなければならないというところに、家族関係の特徴があるのです。志賀直哉の小説「和解」でも、骨肉の争いのみにくさをとことんさらけ出すなかで、主人公と父親とが和解していくことがテーマになっています。「血は水よりも濃し」というのは、肉親の愛情の強さをいった言葉に違いありません。しかし、それは手ばなしでそうなるものではありません。

家族自体、社会と切り離されたものではなく、社会の発展と同時にそのあり方も変化していくものです。たとえば、遺産相続という形で、家族はきわめて経済的な利害関係を含んでいます。こういう要素が家庭内に入ってくるため、無私の愛情関係だけでは済まされない状況が生まれてきます。多くの財産のある、お金持ち家族の場合、遺産相続をめぐって、金銭的な利害関係が家族の間にも生まれ、対立を生むことにもなります。

一方、労働者など、働くものの家族の場合、遺産相続という利害関係がもち込まれることが少ないため、無私の愛情が育ちやすいといえます。それは、親子、兄弟が一つ屋根の下で共同で、お互いの協力で生活を成り立たせるという、努力の中で生まれてくるものです。つまり、一体感のある暮らしをつくる中で「血は水よりも濃い」関係が生まれるのです。

ところで、ここ数年間の社会の変化のなかで、家族関係のおり方をめぐり、さまざまな問題が生じています。子供を平気で捨てたり、子供を児童施設に入れて離婚したりしてしまう若い親。あるいは、自分にしたいことがあるため、子供を部屋の中に入れてカギをしめて外出し、飢えさせたという母親・・・。一方では、子供に面倒をみてもらえない老人が、都会の片隅で、孤独な死にかたをするという例も、新聞などでよく目にします。ここには、物価高、住宅事情の劣悪など、日本の高度経済成長の中で起こった社会の変化が、家族関係に少なくない影響を与えている姿を見ることができます。

家庭の機能として、生産と消費、そしてこれらをあわせて家族の人格を形成すること、がよくあげられます。ところが、いまの家庭というのは、消費の生活はあっても、生産の場ではなくなっています。親と子が、家事を含む家庭での仕事を分担しあい、一緒に汗を流し、共に喜ぶ、そういう生活がなくなっています。その結果、子どもが家族の中でもまれ、人格を形成していくという働きも弱まっているといえるでしょう。

このように、今日「血は水よりも濃い」という言葉とは逆に「血は水のように薄い」という状況か、生じているのです。子供というものは、宿題など、やらなければならないことかあっても、皿洗いを手伝ったり、あるいはテーブルを拭いて家族の食器を並べたりすることに喜びを感じ、積極的になるものです。それに誇りをもち、そういう仕事を通じて、共同の生活の中から、自分の宗族を自覚し、連帯感を深めていくわけです。

ところが、子供に対し「あんた弟の面倒みてね」とか「洗濯しといてよ」とかは、多くの親が言わなくなっているようです。たまに、子どもが手伝いをしようとすれば「そんな暇があるんなら勉強しなさい!」と逆に子供にハッパをかけるというふうになっています。そんな中で、親子、兄弟いの間柄というものか、他人同士の義理のつながりのように、非常に薄くなってきているといえます。「血は水よりも濃し」・・・この言葉のもつ意味をあらためて、考え直してみたいものです。

— posted by Life at 11:55 pm